劇場の追記
朝一旦読み終わってから少しして、読み飛ばしていた残りの25%も全部読んだ。
また泣いた。
なんだかほんとにいろんなものが「愛しいのう・・」と思えるようになってしまっていて、炊飯器のスイッチ押すだけで涙が出てきたので、感受性のタガが外れるとたいそういたい人になってしまう。
それでも、なんというか、自分にとって本当に大切な人は誰なのかを再認識できてよかった。
自分の、自分が選ぶ、自分が大事だと感じる人が、自分の中に戻ってきたような感覚を取り戻すことができたので、又吉さんに感謝したいと思った。
一応「火花」も読んではいたのだけど、なんというかそのときは「ちゃんとした小説を書いてるな」と上から目線の感想を持っただけで、心に響くという感じではなかった。
別にそれは「火花」のせいじゃなくって、題材とか、なんというか、自分が「感情」以外に対してエネルギーをかける人間ではないので、よその話を読んでる気がしただけなんだと思う。
「劇場」は、優しい小説だなと思う。
小説ってすごいと久しぶりに思った。
感情が一皮剥けるというか、お風呂上りみたいにさっぱりしたというか、本当にいろいろとありがたかったし、とにかく感動した。
劇場
今日は有給なのに、金曜からとっていた休みの最終日で、明日からの仕事がいやでテンションが低かった。
旦那さんを送り出して、こんなときは感情を強引に動かす何かを読むのがいいかと、彼の本棚にあった「劇場」を読むことにした。
旦那さん曰はく、小説の起承転結の転にあたる部分で、うまくいっていた二人がすれ違ってしまうのが切なくて読み進められないとのことだったので、私もそんな悲しいものを読むのは気が引けて、敬遠していた本ではあった。
小説の真ん中あたりを飛ばして、全体の75%くらいを読んだ。
泣いた。
がんがん泣いた。
主人公も彼女も、お互いのことほんとに大好きやんか。
「一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。」
小説の帯だけを見て、最初
「会いたいのに会いに行かないなんてよくわからない。」
と思っていた。
私は、とにもかくにも自分の感情に対するこらえ性がなくて、会いたくなったらどうにかして会いに行くような人間だったから。
けれど、実際に劇場を読んでみて、なんというか、とにかくお互いにすごく大切だと思いあっている二人と、不器用を何重もコーティングして出てくる主人公の優しい言葉が琴線に触れまくって、朝から号泣だった。
感動してたくさん泣いてることを、旦那さんとか母親とかその辺の近しい人に話したくてたまらない自分に気づいて、
「もうすぐ32になるというのに、自分は幼稚園のときからマインドが変わってない。」
とちょっとへこんだけど。
旦那さんも優しい人だ。
私が理不尽に怒ることも、泣くこともたくさんある。
けど、とりあえず「どうしたんかね」と言って、私がどんなにむくれてもこっちを向いていてくれる。
これ以上優しい人はいないと思う。
私は狡猾で、傲慢で、卑怯で怠惰なのに。
大事にしなきゃなと思った。
ほんとに。
この人がいないと、私は本当に大変だろう。
仕事ばかりに一生懸命で、一生懸命っていってもなんだかんだ周り道ばかりで中途半端であせりるばかりで。
そんな毎日の中で、覚悟を決めて読んでみてよかった。
かたくなっていた自分の感性が、少し自分らしさを取り戻した瞬間だった。
「今年こそ」
今年こそ。
と書いて、「今年こそ」「明日こそ」なんていって成功した試しがないなと、いきなりネガティブになった。
今週なにやっただろう、来週はなにをしよう。
来年の今頃は何をやっていたい。
そう思いながら振り返り振り返り、一歩ずつ確認しながらやっていこうと思う。
そのために、必要なこと。
去年の反省。
モチベーション確保の方法。
体調管理(飲み過ぎない!)
上手いことやっていきたいなー。
頑張ろう。
振り返り
今の業務に携わるようになってもうすぐ1年が経つ。
この1年で、自分は何ができるようになっただろうか。
過去の先輩たちの偉業に目がくらくらして、とても自分に自信なんて持つことはできないけれど、自分のできるようになったことを自覚するのは、大切な気がする。
できるようになったことがはっきりすれば、まだ手付かずの課題もおのずと見えるようになってくると思うからだ。
謙遜とか、自信過剰とかではなく、ただ現実を冷静に受け止めること。
たとえ冷静さを欠けたとしても、進歩があることそのものを自分でほめてもいいはずだ。
今後自分がどのようになりたいか、何ができないから何をできるようになりたいのか。
しっかり見つめていきたい。
自分の不出来について
いろいろと言い訳がましいことを考えていた。
けれど、行き着くところは、自分の努力不足と実力不足だった。
たくさんの本や情報で見かけた、「自分の実力に気づくのが嫌だから」という理由でチャレンジしないことと同義だ。
何がしたい?
どうなりたい?
もっとしっかり考えないと。
そして、自分が思っているよりずっと私は努力しないといけない。
逃げずにもう少しだけ粘りたい。
それは資格を取ることに限らない。
自分が目指すレベルに到達するよう何かを必死にしたいだけだ。
仕事で自分が思うようなパフォーマンスをしたい。
これが、私が今腹をくくれる最優先事項ではなかろうか。
そのためになにをすべきか、もう一度考えるんだ。
長期スパンで考えよう。
背に腹は代えられない。
使えるものはすべて使ってしまおう。
勤勉であろう。
思考そのまま。フリーライティング。
仕事ができるようになりたい。
後輩が入ってくる。
できる先輩と比べてしまう。
民法を理解していないといけない。
行政書士の試験勉強では、思考能力がつかない気がする。
しかしながら、まずもって勉強には絶対的な「量」が必要なこともわかる。
どんな「量」を積むかと考える。
それはすでに「質」へのフォーカスになっている。
家事をしないといけない。
料理の上手な嫁でいたい。
部屋をきれいに保ちたい。
センスのなさ、めんどくさがりが災いして片付けがすこぶる下手。
妙な完璧主義が発動し、「とりあえず手を付ける」こともままならない。
解決策を考えたい。
優先順位をつけること、その優先順位につき腹をくくること。
何が一番大切か。
優先順位のつけ方ってなんだろう。
「良い嫁」を自分の中で1番にしても、旦那さんから求められている事実もなければ、一日の大半を過ごす職場での評価を気にしなくて済むようになるとは思えない。
要は、その優先順位に腹はくくれない。
ならば、腹をくくれるような優先順位のつけ方をするようが上手いやり方か。
しかしながら、それは「優先順位」といえるのか。
ならば、「腹をくくれる」ことを第一とした優先順位をつけるという手段を考える。
なるほど、それはある意味効率的かもしれない。
何に対して腹をくくれるか、覚悟できるかからの思考は、自分の中の曖昧な趣味嗜好の整理整頓を助けてくれるかもしれない。
何に対してなら腹がくくれるか。
え、それ難しい。
結局覚悟を決めるのが嫌だということか。
軟弱者め。
けれどそんな自分でも、仕事してて家族があって生活しているのだから仕方ない。
考えることをやめると先に進まない。
話は最初に戻るが、今行っている資格試験の勉強を続けるか、講座を辞めて仕事で直接必要な知識の習得時間を増やすか。
資格試験の勉強を続けるメリットは何か、もう一方の選択肢のメリットは何か。
資格試験の勉強を続けるメリットは、上記した「量」的な勉強を強いられることだ。
量をこなせば、確実に何かしらの結果が出る。
資格試験の合格につながるという意味もしかり。
しかしながら資格試験の合格は私自身を喜ばせることができるか。
無いよりまし程度か。
では、量的な勉強がもたらすほかの効用はないか。
とにかく問題集を解くこと、それはアウトプットの機会を設けることにつながる。
おそらくインプットの段階だけでは気づかないような「字面の読み間違い」に気づく機会になるはず。
なにが邪魔か。
行政法の勉強時間だ。私のなかで優先順位の低いものへ割く時間が多いのがネック。
やる気もないしな。
しかしそこを努力で割り切ればよいか。
民法ってどうやったら身につくんだろう。
実務で使う法律はそもそも条文数が少ないのだから、働きながらの理解でも間に合うか。
量、数をこなして民法一周させるほうが今後の身のためにはなるんだろうか。
そんな気はしてる。
ならこれを続けることは前提として、実務の法律の勉強方法を考える。
あと仕事の効率化を考える。
仕事が今できてない。
やるべきこと、覚えるべきことがこなせてない。
「知ってるか知らないか」が時間がかかるかからないの大部分を占める。
これは事実だと思う。
私には「余計なことを考えてる時間」が多分多いのだ。
文章を読んでいても、頭に入ってきてない。
対人的仕事も、気づけば「思考の外」でやってる。
頭に入ってきてない。
集中してないということか。
何を考えるべきなのかを考えながらの仕事ができてないのか。
ゴールを見据える→現状を把握する→順序を考える→着手する
これをやるにあたって、「知ってることは何か、知らないことは何か」を考えながら、知らないことを聞き、知っていることは落とし込んでやっていく。
極めてシンプル。
これは後輩のOJTのときに話したいことだ。
人に教えることは、自分のアウトプットだから。
「脳はこんなに悩ましい」の中でも、「出力の法則が記憶にも当てはまる」
といっていた。
「出力する機会が多ければ多いほど、記憶は定着する」とも。
であれば、やはりテスト勉強、いや「テスト」そものもは記憶の定着に向いているということになる。
仕事もそうだ。
「知っていること」を何度も繰り返すといい。
確実に7月までTやろう。
私は伝えたがりだ。よくしゃべるし、感情の起伏が激しい。
いいことばかりではないけれど、アウトプットが苦手ではない、もといアウトプットが嫌いではないのだから、さして苦痛ではないはずだ。
後輩OJTのときは何を伝えようか。
私が1年前知りたかったことは何だろう。
私がこの1年で得たものは何だろう。
「1年だけ経験を多く積んでいる人間」としていえることを伝えたい。
全貌とか、細かい知識はベテランに任せればいい。
今後一緒にどんなことをやっていくのか。
どんなことを意識しながらやっていけばいいか。
あなたはどんなことが得意なのか。
そうか、こちらからの一方的な話ではなく、
「お互いこれからおなじ分野の仕事に着手するのだから、お互い知らないことを知りながらやっていくスタンス」を相手に示したい。
もちろん1年やった上で説明できることは説明する。
相手は何が不安だろう。
どんなことが知りたいだろう。
わからないよなぁ。なにもないところから突然「何か聞きたいことは?」って言われて有意義な質問ができたためしなんてないものな。
あ、あと完全なる脱線だけど、仕事時の服装的に、「おしゃれ」より「仕事っぽい」を優先したい。だから、柄物のシャツとかみてたけど、それより清潔感とシルエットを意識して、靴も今まで通りの黒のシンプルなパンプスでいこう。
「仕事が楽しい」ってあんまりならないけど、「仕事やってる自分」に酔ってもそれはそれで結果的に仕事がはかどるならいいんじゃなかろうか。
そのうえでの私なりの「武装」をすこしシンプルな方向にこだわりたい。
そう考えると「身ぎれい」は基本だな。
美容室は定期的に行くこと、爪の艶を保つこと。
それだけでだいぶ違う気がする。
顔もスタイルもダメな自分が、手をかける価値があるパーツだけでも。
よし!今日はここまで!
継続は力なり
最近のテンションの低さにほとほと嫌気がさしてきたので、徒然なるままに最近思うことを書いてみようと思う。
結婚している、安定した職業に就いている、などなど。
世間一般の視点から見れば、明らかに「幸せ」な生活であり、ディティールを考えると「もしや自分は勝ち組と言っても過言ではないのでは。」とも思う環境にいる。
のに。
なのに。
なぜ私からは「勝ち組感的なもの」が出ていないんだ!!!!
と最近よく思う。
なんでなんで!とぼやいていたら、同僚から至極まっとうな回答が返ってきた。
曰はく、「自分に自信がないからだよ。」と。
誰しもが学校生活の中で感じていた学生社会的階層に対し、「スクールカースト」という適格な言葉が見いだされた時代。その時代を、まさに当事者であるところの学生として過ごしてきた彼女にとって、それはあまりにも当たり前の回答らしかった。
思えば、「自分に自信を」という言葉そのものを久しぶりに感知した。
そんなことは、「なぜ自分は生きているのか」的に悩む混とんの10代を抜け、そこそこ現実的な悩みを抱え始める20代に考えることなのだから、30代に突入した今となっては「そんなのかわいらしいお嬢さんたちが必至になって考えるようなこと」だと斜に構えていた節がある。
すなわち、「自分に自信を」などという問題は、モテテク、ゆるふわ、フェミニンなんちゃら・・・そんな言葉が跋扈する華憐なファッション誌を、きらめくジェルネイルの指でめくっている人たちが抱える悩みであり、私が考えるべきは、ガチで治らない口内炎と増えてきたシミへの対策、あと降下を続ける記憶力・瞬発力を無理くり引っ張りながらいかに仕事や勉強の効率を上げるかなど、抽象的部分の一切ない、純度100%の現実問題にほかならないのだと。
しかし。
思えば、そこそこ苦労した20代を抜け、やっと己が目指していた安定を手に入れた今となってもなおこんなに勝ち組感がでないのはいかがなものか。
私は喉から手が出るほど欲していた生活を手にしてもまだ足らないということか。
ものごころついたときから私の夢は「主婦」だった。
小学生の時分には、母の読むおはよう奥さんを愛読し、将来はどんな家計簿をつけようかなどと夢想する子どもだった。
そうするものだと思っていたからできる範囲の高校へ進学し、可能な環境とそれを当たり前とする文化に身をおいていたから大馬鹿ではない程度の地方の私立大学へ入った。
学生の次はひとまず就職だと思っていたから就職した。自分を取り巻く友人たちのトレンドに反することなく、地元ではそこそこ有数の金融機関に入った。
彼氏もいた。
このまま、結婚して寿退社して子どもを産むんだ。
よし!そしたら英才教育を受けた家計簿の出番になるはずだ!
思えば、そのころの自分が一番自信を持って生きていた気がする。
実際私がその後歩んだのは、失恋と、厳しいノルマを苦にしたリタイアと、彼氏もおらず婚活もうまくいかない現実の中で過食に走り、太り、自己嫌悪に満ちながらもプライドばかりが先行する、親のすねをかじりながら生きる退化した日々だった。
そんなクズのような生活の中で、欲していたものはやっぱり「結婚」だった。
とにかく彼氏が、旦那さんが欲しかった。
実家を出たかった。
便利な場所で、自分を愛してくれる人と新しい家庭を築き生きていきたかった。
ありがたいことに、もがく中で良い友人たちに出会い、人の数倍の時間をかけながらも、なんとか再就職することができた。
至る、現在。
ではあらためて、ジェルネイルではないプチプラのネイルがはがれかけながら、ファッション誌ではなくはてなブログをカタカタやりながら、ここまできてなんでまだこんなにも自信がないのかを考えてみる。
そもそもほんとに自分に自信がないんだろうか。
最近はよく実家の父に褒められる(らしい。母伝聞。)。
それは、主に私の仕事に対する姿勢がよくできているというものからくるそうだ。
なるほど、私は最初の就職のときと比べ、今は積極的に仕事に関与しようとしているし、まじめに働かなければいけないという意識をもっている。
人間関係においても、友人が増えたし、聞き上手の称号をいただくこともある。
先日は「ねぇさんは、ものの言い方が上手い。」なんて褒めてももらった。
昔の自分にはなかったものと思われる。
なら、そのへんに関してはもう変に邪推したり慇懃な謙遜をしたりせず、「前よりできるようになった」と素直に思っていていいことにしようではないか。
なんとなく、このへんまではいい感じだ。
では次。
それでも払拭されない、この満たされない感は何?いやもうほんとまじで。
やっぱり女性性への自信のなさが根源なのか。
恋人がいない期間が長かった上に人生全般通して太り気味で必要なところにあるべき肉がないほんのり残念さの漂うボディ。
加えていざ勝負のときになってお披露目することになる、状況の芳しくない素肌。
「もてたことがない」という現実そのもの。
確かに、我ながらオーバー30の女性が自信をもつには厳しい条件が揃っている。
ついでに言うと、自分のことを女性的に評価してくれていた(すごい久しぶりに)男性が、君のような素敵な人は珍しいなどと言うその口でほかのメンヘラさんにもお声をかけ、なおかつ自分に対するよりも彼女に対しはるかにビップ待遇をほどこしていたことを知り、最近泣きを見たばかりだ。
自分がなぜこんなにもこの一連の事実にショックを受けるのかがわからない。
だって私は持ってるのに。
今まで欲し続けた「旦那さんとの家庭」を。
愛されてないわけではないし、評価されてないわけでもない。
私の枯渇の根源は一体何なんだ?
今私が欲しているものは何なんだ?
結婚してないときは結婚したいと思う。
結婚しても、そんなのみんなしてることで当たり前のことだと思う。
いいところに就職しても、そこにいる人たちはみな同じ職の人間。
もうほんとに勘弁してほしい。
身の程を知れよ自分。周りに感謝しろよ自分。
何を得たら満足するんだ。
どんな人と比べて羨んでるんだ。
自分の認める人からの評価が欲しいのか。
昔からそうだ。私は頭のいい人から特別扱いされることに悦を覚える。
自分も特別になった気がするからだ。
実際の自分は賢くないし、ミスが多い。
そうか、私は人に対して偉そうにしたいのか。
バカバカしいことだ。
「壊れ物には壊れ物の分(ぶ)があるんや」ジョゼと虎と魚たちの台詞。
「身の程をしれ身の程をしれ、空が高かろがえじゃないか。地面にゃちゃんと花もある」ぼのぼのに出てくるアライグマくんのお父さんの台詞。
どうすることが自分を認めてやることなんだろう。
どうしたら人と比較しなくて済むようになるんだろう。
誰それから褒められたいと、どうしたら思わなくて済むんだろう。
どうしたらいい?
努力?けどきっとその努力を認めてほしいと思うんじゃん。
ああ、苦しいなあ。
けど、継続することはきっと何かに役立つから勉強はしよう。
やり方は悪くても、効率悪くても、とにかく少しずつでも続ける。
そしたら何かの自信につながらないかなあ。
自分を作るのは自分なんだから。
そうだ、自分を作るのは人の評価なんかじゃないんだよ。
そして、私が目を向けるべきは人でも人の評価でも自分自身でもなく、やるべきことや身に付けるべき知識そのものなんだ。
目前のことを着実に身に付けた先にきっと自分があるんだ。
だからやろう。
やるべきだと思うこと。考えるべきだと思うこと。
ひとまずそれでいい。
それでいいはずだから。