ハナコログ

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好きな人

今まで、人のどんなところを見てその人が好きだと判断してきただろう。
あ、恋愛の話です。
25歳くらいのときに、長く付き合っていた人とお別れすることになった。
それから、「こんなはずじゃなかった」の念と結婚への焦りで、出会いの機会を増やしては、なかなか結果に結びつかないことを繰り返してきた。
結果に結びつかなかったのは、「この人ならいいな」と思った人から選んでもらえなかったことに起因すると思っている。

しかしながら、「このひとならいいな」という感情の上から目線加減と、人としてのダメさ加減に自分でも吐き気がするなと今は思う。
そんなだから、誰も大切に出来ないし、誰からも大切にされないのだ。

そんな自己批判はひとまず保留にして、好きな人の話をしたいと思う。
今年の初夏くらいに、ものすごく久しぶりに、好きだなと思う人ができた。
それは先に挙げた「この人ならいいか」ではなく、「この人いい」という思いからくるものだった。
私は28歳で、相手は40歳。同じ干支で、丁度一回り年が違う。
(一応補足だけど、独身の人。不倫だとか、その年齢で結婚歴がないのは何処かに問題があるとか、そういう話じゃないので。)
私のこの人への感情が、好きだという気持ちなのか、何度も考えた。
年齢のアドバンテージがあるから、自分でも相手にしてもらえるんじゃないか。相手は、私に物を教えてくれる立場だから、憧れがあるだけじゃないか。
そもそも、久しぶりの学生生活に浮かれてるだけじゃないか。
などなど、いろんなことを考えてみた。
相手に特別な感情を持ってから約半年。
今は、もう単純に「一緒いたい」「会えたら嬉しい」でいいんじゃないかなって思っている。
そして、もれなく付いてくる「他者への嫉妬」とも、恋愛やってちゃ仕方ないと割り切って付き合おうと思う。

きっと、知らないうちに恋愛相手に対して、いろんな条件をつけてる。
それは、今好きな人に対してもどこかでちゃんと存在してるんだと思う。(タバコ吸わないとか、見た目が大丈夫とか。)
けど、結婚という目標への焦りからくる恋愛への姿勢とは違う形で、人を好きになれた気がする。
大きな財産だ。

…その自分の中の気持ちだけで満足できたらいいのに。
あー、ふられたくないなー。




背伸びした先にあるもの。

何かを問われたら、その相手の望む正解を答えたい。

相手が満足する応答をしたい。

相手は私がどう発言すれば納得してくれるだろう。

そうやって考えかんがえ話す「くせ」があるらしい。

しかし、わかる人にはわかるのだ。

ばれてしまう人には、お見通しなのだ。

それが私の本心でないことが。

 

「背伸びをした先に何があるというんだ。」

 

うん。その通りだ。なんにもない。

私のかかとは、28年間ずっと浮いたまま。

きついのは自分だけ。

ほんの少し見える景色の違いに満足しているのは自分だけ。

相手から見たら「何してるの?」ってなるだけ。

 

かかとをつけて。

地に足をべったりとつけて話そう。

自分の目線から見える景色を、誇張のない自分を。

 

 

 

 

 

痛い日もしっかりと生きる。

器の小さいことだけど、なかなか自分が余裕がないと、人を全力で思いやることは難しい。

けれど、自分が痛い思いをしないと、人の痛みもなかなか理解できないと思うのも事実。

自分が幸せなときでも、痛みを訴える人の気持ちがわかるように。

だから、痛い今日もしっかりと大切に生きよう。

そして、いつか、幸せになれますように。

満たされないわけ。

楽しかったとか、嬉しかったとか、会えてよかったとか、一緒にいれたことは本当に大切な時間だったとか。

そんな風に、相手から与えられた影響のほんの少しでさえ、私は相手に影響を与えていない。

それが、満たされない理由だと思う。

何者でもなくても、頭も見た目も優等生でなくてもいい。

私は凡人で、非凡になりたいというわけではないから。

私の感情の振れ幅の半分でもいいから、私という存在について、どうか心を揺れ動かして欲しい。

随分と思いやりのないことだと思う。そんなのは愛情ではないと言われるかもしれない。

実際に、美しい愛情ではないと自覚もある。

でも、どんなに醜い感情でも、大事にしたい自分の感情だったりする。

自己満足したいんじゃないよ。自分で自分の感情に満足するしかないだけだよ。

だって、自分まで自分のことを否定してしまったら終わっちゃうから。

汚くたって、醜くたって、根源に相手への愛情があるんだと思いたいじゃない。

じゃなきゃ、この気持ちはなんなんだってなるでしょう。

自分だけでもよしとしないと、こんなに苦しくていられないと思うんです。

できるなら、もっと綺麗な感情を持ちたかった。けれど持てなかった。

産んだ子供がすこぶる不細工だったというのと似ていると思います。

汚く生まれちゃったんだから仕方ない。

本当に自分の感情というものは、手のかかる、面倒くさい、しかし自分以外に任せることの出来ないものだと思う。

一番やっかいなのは、そんな感情に対しても、愛着を持たずにいられない自分です。




やりたいように

昔は本当にやりたいことをやりたいようにやっていたと思う。

それは夢を追いかけるとか、そういうことではない。

例えば、夜中に寂しいと感じたら誰かに電話かけるとかそういうこと。

相手の気持ちや状況を考えて、自制するということを、どの程度やっていただろう。

あの時の寂しさと今の寂しさの大きさが違うのか、それともそれを聞いてくれる人がいなくなったのか。

どちらでもないと思う。

寂しさの形はどれとどれが同じとか、どれが一番大きいとか言えないけど、私がそれを訴えたときに、何事かとあの時と同じように耳を傾けてくれる人はたぶんいる。

大人になんてなりたくなかったな。

なんとなく寂しいときに、ふと思う。

放り投げたい程の気持ち

先日書いた「幸せって改めてなんだろう」の記事について、自ら思ったことを覚書き。

もどかしかったり、悔しかったり、情けなかったり、とにかく気持ちが溢れてきたとき。
それはスラスラ言葉になるものだと実感しました。
そのとき私は気持ちが溢れて、外に向かってワーって一気に放り投げたくなって、そうしてブログに書いて投げました。

毎日続けるブログって素敵だし、目標とするのもいいと思う。けれど、たとえ一度離れてしまっても、どこかに投げてしまいたい程気持ちが溢れたとき、無理せずとも記事は書ける。
書きたいから書く。
そんなごく自然な動機も、悪くないなって思いました。

幸せって改めてなんだろう。

一ヶ月続けた安心感ですっかり遠ざかっていたブログです。

またぼんやり書いてみようかと。


どうして体裁って気にするんだろう?誰が私の幸せを決めるんだろう?

今私は幸せな部分も満たされない部分も持っていて、ただそれだけなのに、どうして、満たされていないことを人に悟られたくないんだろう。

本当にそれだけなのに。

誰からどんな風に思われたら幸せなのか。

私はこんなにも人の目ばかりを気にしてたんだなぁ。

こんなんじゃ、一度幸せな自分を纏えたとしても、すぐに崩れてしまうに違いないなぁ。

もっと、きちんとした自分でありたいなぁ。