ハナコログ

覚書onインターネット

立場や役割

仕事でも家族間でも、立場と役割がある。

それによって自分に担えること、担えないことがある。

自分の理解してほしいことすべてをだれかひとりに押し付けることはできないし、逆もまた然り。

であれば、自分の対峙している相手にとって自分が何者であるのか、何を求めることができて、何をしなければならないのか。

 

なんというか、自分の立場的限界を自覚した気がする。それは悪い意味でなく、今後の自分のスタンスに関しての理由になり得る事実として受け入れることができそうだということ。

 

覚悟も必要ではあるけれど、もう必要以上の義務感もある意味必要ないということだ。

 

西加奈子さんの短編小説に「孫係」というのがある。「係」とはよく言ったものだと読んだときに思ったけれど、それを名実ともに体現していくというか。

うまくまとめられないし、いいようにばかりとらえてもいけないのだろうけど、とにかくひとつ腹をくくる何かを感じとれた気はする。

 

正解かどうかわからないけど。

聞きたい音楽

私は歳の割に70年代のフォークソングをよく知っている方だと思う。

一人っ子で、両親が出かけるときはだいたいどこにでも連れて行かれていて、その車中で流れていたからだ。

 

幼い頃って、自分で自分の生活環境を選べない。自然と、家庭の中のスタンダードに慣れ親しむことになる。

子どもが生まれたとき、きっと私が当たり前に聞く音楽がその子の耳に入るはずだ。

 

いま、なんとなくだけど、カーペンターズビートルズ、マドンナ、マイケルジャクソンなど、海外の不朽のアーティストたちの音楽を流してたいなと思う。

私も聞きたいし、耳馴染んで損はない音楽なんじゃないかな。

幸い主人もそのあたりの音楽はきっと好きなはず。

あと、海外アーティストを候補に挙げたのは、英語に幼い頃から親しむこともいい気がするから。昨今の教育事情は知らないけれど、日々何気なく体に馴染んでいることって、とても大事な気がするのだ。

平日

平日休みであることはもっと楽しいものだと思っていた。

なんせ、大嫌いな仕事に行かなくてよいのだ。

しかしどうだろう、これはこれでなんかしんどい。

日中誰とも話さないことが続くのがこんなにも心の健康によくないとは思わなかった。

(びっくりするほど贅沢な悩みだと育休明けの私は間違いなく、間違いなく絶対に思うはずだけど、、、すまんね、未来の私)

 

母がほぼ専業主婦で、私も家族のために家事を行い、家族が快適に過ごせるためのことをやりながら生きていくことを思い描いていたんだけど、ここにきてまさかの事態。

、、、今家族関係が良くないから病んでるだけかもしれないけど。

 

母が専業主婦として割と快適に日々を過ごしているように見えたのは、料理や裁縫等様々な家事を趣味としても本人が好きだったからというのもあると思う(母曰く、クリエイティブな家事が好きなだけで、掃除や洗濯はやむなくやっているそうだけれど)。

私は料理は好きだし、お菓子作りも割と好き(ここ数年全然やってないけど)。

ただ、料理もお菓子も作ったからには食べないといけないので、妊娠後期に入り体重管理を行わないといけない現在、なかなかそればかりともいかない。

裁縫については、やりたい、やらなきゃいけない、ミシン買ってる、母に憧れているの3拍子以上がそろっているのでいい加減やれよ的な感じなので、それやればって思う。

ただこころがちょっと盛り上がってない今、不慣れ、初心者、不器用の3拍子のほうがより正確なリズムを刻んでおり、なかなか着手できていない(なんやねんと自分でも思う)。

 

で、だ。

私がいまの平日休み生活を楽しめていないのは、出産までの期限付き自由であり、出産後にはできなそうな日常のあれこれをやらなければいけないのに、触手が動かないことにある(だからなんやねん)。

そんなやる気のでない日常のあれこれ(例:携帯料金形態の見直し、保険の見直し、部屋の片づけ、赤子を迎えるにあたっての部屋内の導線の確保など)があるなか、「出産のための体づくり」の一環である「マタニティヨガ」があることに気づいた。

以前から予約をしていた教室に先日行ったこともあり、なんとなくやるためのハードルも今は下がっている。

心の健康が害されている上に、夜まともに寝れず昼頃やっと布団からでるという最高にメンタルよわよわの中、風呂に入り、ヨガマットに安座した。

そして、先日ヨガ教室で行った呼吸や開脚やいくつかのストレッチ系ポーズを約10分間行った。

あーこれいいわーと思った。

今私のしんどい原因になっている、何か有意義なことやらなきゃ、ひとりで寂しいを解消してくれる。ひとりで寂しいは解消するというか、むしろ家ヨガはひとりでマイペースに行いたいので、ひとりであることを有効活用できるという方が正しい。

しかも料理やお菓子作りのように、作ったものに対する責任も、作るとほしくなる家族からのリアクションも求めなくてすむ。

画期的だ。

そしてきちんと続ければ、出産まで2か月強あるので少しは体にも変化があり、お産ももしかしたら少し楽になるかもしれない(なってなかったら未来の自分、ほんとにごめん)。

かつ、自律神経が整うからか、最弱メンタルの調子が少し上がる。

 

ということで、今後ヨガを第一に、それで少し回復した心と体と相談しながらほかのやるべきことをやっつけていこうと思う。

 

産前休暇日記①終わり。

 

父母、家族

父や母の承諾をずっと求めて生きてきたのだと改めて気づいた。

自分の価値観や考えは、30年をゆうにすぎる年月生きてきて父母を離れて確立していたが、なぜこんなにも自立的でないのか合点がいった。

 

思えば、結婚してからも私を産み育ててくれた父母との家族関係を中心に価値観を修正し、新しい家族である夫にそれを強制していたように思う。

そこに私の本意や私の価値観そのものが反映されていたかは定かではない。

 

先日、母と二人で温泉旅行に行った。

大きくなったお腹で、3つの心臓いっしょに温泉につかり、楽しい時間を過ごした。

そのとき、唐突に自分が子供を産むことと世代交代(親の死)は遠く離れたものでないことに気づき、母っ子の私は悲しさと寂しさを感じた。

そのときは、母との別れが嫌だという感情しかなかった。

けれど、それは今後私が生涯を通じ長く付き合っていくのは夫やこれから生まれてくる子どもであることとイコールなのだ。

 

「自ら選んだものでない、恩のある家族」でなく「自ら選んだ、共に今後長く未来を築く家族」との価値観や距離に対して熱量をかけて生きていく。

それは、私が結婚してもなお浸っていた旧家族の価値観からの脱却を肯定するものだ。

 

もう、必要以上に縛られるのはやめよう。

そんなこと、誰も望んでいない。

新しい家族と、私の持つ価値観を大事に。

そしてそれを父母から承諾されずとも構わない。

 

すぐに実践できるかわからないけれど、そうやって生きていけばいいんだと、頭でやっとわかった気がする。

この気持ちを忘れずに、新旧両家族と良い距離で生きていけたら幸せだと思う。

夫、家族

身近な人がおおらかでいてくれることのありがたみをひしひしと感じる。

不平不満がないとは言わないが、根本的に一緒にいてもらえて助かると思う。

 

何年も前、結婚したいのにできないかもしれないという不安に駆られていたときにノートに書いた「おおらかな人と結婚して幸せに暮らす」という夢が叶っている。

主体性のない褒められた夢ではないが、憧れていた生活が、夫のおかげで送れているのは間違いない。

不満が先立つ日が多いのは確かだけど、こうして本心からそう思えたので、思いの丈を残しておこうと思う。

夕餉のにおい

アパートのエレベーターを降りると、同じ階のどこかの家からいいにおいが漂っていた。メニューはグラタンだろうか、チーズが焼けるような美味しそうなにおい。

 

ああ、こうやっていいにおいをさせながら家族を待つ。

そんな生活に、そんな人生に、そんな役割に憧れて生きてきたんだと思った。

 

どんな人生が幸せなのか。

自分はどんなことに幸せを感じる人間なのか。

少し思い出した気がした。

自分

人間関係のひとつに区切りがついた。

 

寂しく、後ろ髪をひかれる思いがある。

 

これからは、自分がなにをしたいか、しっかり見つめて生きていこう。

 

自分の声に、きちんと耳を傾けていく。

 

いままでありがとう。