ハナコログ

覚書onインターネット

料理2

今日母と会って、先日の主人との「キムチチャーハン事変」について話した。

私が気分を害したことについて賛同したりしつつ、己の料理失敗談を少し話してくれた。

なんでもその昔、パスタにとろみをつけるために、大量のバターを投入したところ、大変なことになったことがあるらしい。ほかにも、お菓子作りや料理で度々失敗し、やむなくゴミ箱のお世話になることもあったそうな。

料理の腕はどうやったら上がるかと問うたところ、「経験あるのみ」とのこと。

なにごともトライアンドエラーの積み重ねなのだと思う。

まだ見ぬお腹の子どもには、煮物や魚料理も食べてほしい。

母を見て学ぶより、自分でやってみる機会を増やすことが大事だなぁ。

(失敗したときの被害を最小限にしたいので、2人分くらいの煮物をチャレンジしてみるか……)

料理

今日、夕飯にキムチチャーハンを作って夫に出したところ、途中梅肉を自分で持ってきておもむろにチャーハンにかけて食べ始めた。私の中で沸いた感情はふたつ。キムチチャーハンに梅って合うわけないし、塩分過多になるし馬鹿じゃない?という思い。そして、あぁ私の作ったチャーハンは美味しくなかったんだなという思いだ。

たったそれだけのこととも思うし、ごはんくらい好きに食べてしかるべきなのに、私は了見の狭い人間だなとも思う。

けれど、しばらく回復しない程度には私のテンションがだだ下がりしたのも事実だった。

 

ネットで調べれば、レシピもメシマズ解消法もあれこれ載っている。

けれど今のところの私の考えは、ひとまず忘れないうちに同じものを何回か作ることで、慣れることを目標としたい。

自分のテッパンをいつくかもつのだ。

 

私の母は、すこぶる料理が上手い。

母の老いを感じてきた昨今、私の中に母をなんとか残したい気持ちもある。

まず、私の好きなメニューをいくつか挙げて作ってみよう。そして母に味を見てもらって、課題を見つけよう。

作ってもらったものを食べるだけでは上達しない。残したい味を、まず自分で作ってみる回数を増やしていこう。

草間彌生氏にもらい泣き

松本幸四郎×草間彌生のSWICHインタビューを見て、泣いた。

いやまさか草間彌生からもらい泣きするとは思わなんだ。

 

なんというか、正直彼女の絵画の善し悪しはわからない。

けれど、彼女が話す言葉や流す涙はとても正直で、まるで裏がないように見えた。

 

誰かによく思われたいとか、評価されたいとか、そんなことにまみれて生きている私は、自分が泣いているときも、誰かの目を意識しながら泣いている気がしてならない。

 

けれど彼女は違う気がする。

きっと、88歳という年齢で毎日毎日己の中にある芸術と向き合い、葛藤し、前に押し出しているエネルギーを持つ人には、不必要なものを持っている暇はないんだろうなと思う。

 

なんかすごいな。

こんな芸術のことなんでよくわからない私でさえ、なにかよくわからないけれど涙が出るなんてことをさせるような人は、やっぱりよっぽどすごいんだろうな。

 

残念なのは、私が泣くことができたのは彼女の「言葉」を聞いたときだったこと。

 

私は、「絵画」を見て涙したことがない。

私の中に入ってくるのは、「言葉」なんだよなぁ。

だから言葉を大事にする人が好きだ。

難しい言葉である必要ないのだけれど、的確な言葉を選んで自分の気持ちを伝えようとする人がいいと思う。

 

草間さんは、言葉もぞんざいにせずに、丁寧に言葉を選んでいるように見えた。

けれど、いつか私も「絵画」や「写真」を見て泣いてみたいと思う。

昔からの漠然とした憧れ。

継続は力なり①

私の母は、気が付けば何かを地道に続けている。

なかなか言うことを聞かない、かわいくも少しおバカなうちのわんこのごはん時。

毎日毎日「お手!おかわり!」と言って彼女(犬)の前脚を交互に握っていた。

およそ3年。

そんな彼女(犬)のお手とおかわりは、ただ前脚を交互に宙に浮かせるに過ぎないレベルとは言え、なんとなく形になってないと言えないこともない状態にまで進化した。

 

ほかにも、母は婦人雑誌のお正月特大号だけを購入し、その付録の家計簿をつけるようになってもう数年になる。

 

そんな母の娘なのに、続かない。

なんか知らんが続かない。

父親譲りだと言ってしまいたい。

 

ここにきて、やっと自分が「根性」のみで何かを継続することは不可能なのだと気が付いた。

なんせ「続いてない」という実績が、目の前にうず高く積みあがっている。

 

よく言われることに、「毎日歯を磨くのと同じくらいのこと」になるように、とかとにかく習慣づけをしろというものがあるが、「歯磨きレベル」そのものが高いハードルだと感じる程度にはめんどくさがりの自分には、さらに継続できる仕組みが必要なはずなのだ。

だから、ほんとうに「あとはただやるだけ」の状態を、目標に達するまでできるような「設定」を設けないといけない。

かのteruyastar氏も、やるべきことを極限まで細分化せよ的なことをおっしゃっていた気がするが、まじできっとそれなのだ。

モチベーションに左右されない環境、めんどくささが邪魔しない環境が必要である。

 

思えば私がかつて何かを一生懸命頑張り、それなりの成果をだしたことといえば、学生時代の部活動と、某資格①、某資格②くらいである。

そのときはなぜ頑張れたか。

 

1、さぼると怒る人がいる

2、人生的にせっぱつまってる

3、異性がらみ

 

そのどれかの理由があるときにしか頑張れていない。

自分の魂のレベルの低さが恨めしい。

 

しかしながらもう三十路も何年目。

そんな自分を嘆いてもはじまらないことくらいはわかっている。

 

さてそんな自分が「継続できる」ようになるためにいかにすべきか。

また元気な時に考えようと思う。(←すでに先送り)

 

レッツシリーズ化

 

北欧

去年の10月に訪れて、もうしばらく来なければいいと思っていたちょっとした鬱っぽい感じが(いや、ただ比較的テンションの低い状態か)またきて少し疲れてしまった。

けど、そんな眠れない土曜日のよる(日曜の早朝)に、故雨宮まみさんの「東京を生きる」を読みながら、眠るべく安ワインを飲みつつ、一昨年行った新婚旅行を思い出した。

バルト海クルーズというとても贅沢そうな船上の企画の中、うっかり寝過ごしてメインのステージを見逃し、私は凹んでいた。

深夜目を覚まし、せめて起きてる間は楽しみたいと回った船内の片隅で、遅くまで空いていたバーの小さなステージで彼女は歌っていた。

そして、アコギ一本で彼女がホテルカリフォルニアを歌うのに合わせ、閑散としたバーの中、1組の初老の夫婦が踊っていた。

なんて自由なんだろうと思った。

思えば、本当に本当に楽しい新婚旅行だった。

自分の嫌なところ、悪いところ、旦那さんへの不満が爆発していたと、そう思っていたけど。

いやーほんとにあの夜は、楽しかったなぁ。

回復

元気になった。

10月はわけわかんいくらい暗かったなと、振り返って思う。

今自分に全能感があるわけじゃないから、躁鬱なわけでもないだろう。

なんせ、頭が結構すっきりして、「あれやりたいなー」とか思える。

歩くようになったのもよかったかもしれない。(そもそも、歩こうと思える時点で回復してるともいえるけど。)

友達がフルマラソン完走したと聞いたり、今はまっている坂井豊貴先生(慶應大学教授)のブログにランニングの記述があって面白いのもある。

ぼちぼち歩こうと思う。