ハナコログ

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個体

娘が入院していて、手元にいない。

こんなはずでなかった出産後の生活を続け、退院の目処も健全な発育の確証も得られずに送る日々。

字面を追うだけで吐き気がする。

コロナの時世で1日数分に限られる面会の時間の中で、精一杯娘を愛でるためだけに体を維持しなければならない。

つまり、その数分のために己の健康管理として食事と睡眠を行う。

そのことのなんと不毛なことか。

したいのは娘の世話だけであり、ほかの何をしても楽しくない、時間が経つのがすこぶる遅い。

 

こんな思いをしてしまったがために、娘が退院しようものならどんなに娘べったりな母親になろうかと思っていた。

そもそも、母親になることをずっと夢見てきたのだ。しかも元来人一倍の心配性。

手元に娘が戻ってくれば、不完全なほど片時も離さず、常に娘のことばかり考える親になるに違いない。

あまり推奨されることではなかろうが、仕方ない。こんな境遇なのだから、そんな母親になる私を誰も咎めないだろう……

 

そう思っていたけれど、不安と寂しさに苛まれながら、自分と娘の境遇を嘆く日々は本当に言葉に言い表せないほどにしんどい。

もーほんっっとにしんどい。

 

そんなときふと「娘と私は別個のものだ」と「今」受け入れいてしまえばいいのではないかと思い至った。

「子どもを自分の所有物としてはいけない」と昔から思ってはいた。

思ってはいたが、毎日娘の容体を心配し、不安に苛まれるのは、母親として避けようのないことであり、むしろそうでない者は母親でないくらいに考えてはいないか。

どこかで、子供と自分を別個体と認識することこそ「子離れ」と考えていたから、それは娘が育ってあらかた大きくなってからのことだと思っていたのではないか。

 

そうじゃない。すでに娘は私のお腹から抜け出している1人の人間だ。

「娘と私は別個のものだ」と今のうちに受け入れよう。

私は私の人生を生きるし、娘は娘の人生を生きる。

事実そうやって彼女は彼女の道をもう生きている。

病と闘う人生を娘は生きていて、それを支えるべく丈夫であろうとする人生を私は生きるんだ。

私たちは「別の個体」なのだから。