どうして
高望みしたつもりはないんだけどなぁ。
普通に結婚して、普通に子供を育てて、普通に生きたい。
普通の含む意味は多いだろうけど、とにかく多くを望まないから。
母と2人で行ったあの旅館に、娘と3人で行くのが私の夢なんだ。
まるで私の人生ではない。
私の人生に起こったことだと思えない。
そんな思いをしている人が、この世に何人いるんだろう。
信じてるよ
娘ちゃん。
今日から新しいお薬使ってるって。
前使ってたのより効いたらいいね。
あなたがきつい思いをしないように。
早く元気になって、帰って来れますように。
みんなみんなそう願ってるよ。
あなたの生命力を信じてるよ。
絶対大丈夫だからね。
また一日ずつ、一緒に頑張ろうね。
元気に育ちんさいやー!
個体
娘が入院していて、手元にいない。
こんなはずでなかった出産後の生活を続け、退院の目処も健全な発育の確証も得られずに送る日々。
字面を追うだけで吐き気がする。
コロナの時世で1日数分に限られる面会の時間の中で、精一杯娘を愛でるためだけに体を維持しなければならない。
つまり、その数分のために己の健康管理として食事と睡眠を行う。
そのことのなんと不毛なことか。
したいのは娘の世話だけであり、ほかの何をしても楽しくない、時間が経つのがすこぶる遅い。
こんな思いをしてしまったがために、娘が退院しようものならどんなに娘べったりな母親になろうかと思っていた。
そもそも、母親になることをずっと夢見てきたのだ。しかも元来人一倍の心配性。
手元に娘が戻ってくれば、不完全なほど片時も離さず、常に娘のことばかり考える親になるに違いない。
あまり推奨されることではなかろうが、仕方ない。こんな境遇なのだから、そんな母親になる私を誰も咎めないだろう……
そう思っていたけれど、不安と寂しさに苛まれながら、自分と娘の境遇を嘆く日々は本当に言葉に言い表せないほどにしんどい。
もーほんっっとにしんどい。
そんなときふと「娘と私は別個のものだ」と「今」受け入れいてしまえばいいのではないかと思い至った。
「子どもを自分の所有物としてはいけない」と昔から思ってはいた。
思ってはいたが、毎日娘の容体を心配し、不安に苛まれるのは、母親として避けようのないことであり、むしろそうでない者は母親でないくらいに考えてはいないか。
どこかで、子供と自分を別個体と認識することこそ「子離れ」と考えていたから、それは娘が育ってあらかた大きくなってからのことだと思っていたのではないか。
そうじゃない。すでに娘は私のお腹から抜け出している1人の人間だ。
「娘と私は別個のものだ」と今のうちに受け入れよう。
私は私の人生を生きるし、娘は娘の人生を生きる。
事実そうやって彼女は彼女の道をもう生きている。
病と闘う人生を娘は生きていて、それを支えるべく丈夫であろうとする人生を私は生きるんだ。
私たちは「別の個体」なのだから。
母寺
全ての事象は必然だと考える。
だから、私たちはそれを受け入れるのみ。
ならば、同時に、ただ受け入れることの難しさに苦しむのもまた必然なのかもしれない。
受け入れ難さのために、もがくあがくしていると、ふと救われるものに出会うときがある。
なにが引き金になり救われるかはまるで予測がつかない。
だから、「全ては必然である」と受け入れることも大切だけど、「楽になりたい」ともがいたりあがいたりすることも、決して無駄じゃない。無駄じゃない。
救われることがあるから。
なににか、誰にかわからないけど、突然救われることがあるから。
会いたい
娘に会いたい
生きてる
1ヶ月前、娘を出産した。
今私の手の中にはいない。
まさかの確率の重病を患い、入院している。
でも、そのまさかの中でも、必死でミルクを飲んでちゃんと生きて育ってる。
生きててくれてありがとう。
頑張ってミルク飲んで、大きくなってくれてありがとう。
一緒にいれないのは寂しいね。
でも、生きててくれて嬉しい。
本当に嬉しいよ。
ありがとう。
いつか一緒に過ごせる日を目指して、また一緒に頑張ろうね。
1ヶ月よく頑張ったね。
ありがとう。
本当にありがとう。
お腹
いよいよ最終形態妊婦。
お腹はパンパン。
あんたは夜型の子だねぇ、お母さん寝ようとするとぐりぐり動いてから。
靴下はまともに履けず、少し歩くと息が切れ、頻繁にお腹が張り、股の付け根が引っ張られるように痛む。
一心同体ももう少し。